2014年1月16日木曜日

第9回商店街うんちくツアーの結果報告(5) 交流会




嶋田:今日まわった所は鉄道模型、自動車整備などちょっと不得手な分野ですので、座長は村田さんにお願いしました。口火は切りますけど。

村田:嶋田さんは回るもの、転がるものは、中華のテーブル以外は得意じゃないと仰ったので、私が嶋田さんの通訳ということで担当させていただきます。
さきほど回ってきた2店舗から交流会にも来ていただきました。
タカハシガレーヂの高本社長です。
それから篠原商店の篠原常務です。
 今日は北欧家具の「DECO-BOCO」を見学してきましたが、それに関連して、まず、元町家具について嶋田さんから5分ほどお話をしていただきたいと思います。


嶋田:今日みなさんが「DECO-BOCO」でご覧いただいたのは北欧家具でしたね。
元町で扱っている家具のモデルは、北欧ではなく、いわゆるヨーロッパ、イギリスであるとか、フランスであるとか、あるいはアメリカの家具がモデルとなっています。
そういう家具は欧米の方によって持ち込まれました。彼らが帰国するとき、その家具を横浜に置いて帰る。それを扱うのが日本の商人。
最初の家具屋さんはレンタルショップだったと、元町の近澤さんが仰っています。
え? 洋食器の近澤さん? と不思議に思いますよね。実はあそこも、戦前は家具商でした。
以前は30軒近い家具屋さんが並んでいました。今、元町はショッピングの町といわれていますが、
実は職人の町だったんですね。
 そのレンタルショップから家具屋さんにどうして変わっていったのか。家具を貸して利益を得ていたわけですが、やはりここは自分たちで作ってみようということになります。
江戸時代から明治に変わろうとしている時代で、神社仏閣で仏具や神具を作っていた人々も、横浜に流れてきました。
 そういう方々が真似するため、西洋の手作り家具を集めたのですが、彼らを指導する職人がいないわけです。物だけあります。
さっきの「DECO-BOCO」さんでお聞きしましたよね、家具をばらすって。
それと同じで、彼らも西洋家具をばらして、どのように作られているのか調べていったわけです。
そして、真似をして家具を作っていったのですが、これで西洋家具ができたかというと、そうではなかったのです。
 どうしてか。
 ヨーロッパではカンナは手前から向こう側に押して削ります。しかし、その工具で西洋式の手法を学んだ職人がいないわけです。
元町の家具職人は日本式の削り方をしていました。向こうから手前に挽いて削りました。
ですから、出来上がったものは西洋家具でしたが、造り方がまったく日本式だったということです。それがヨーロッパで作られた西洋家具と、元町で作られた西洋家具の違いです。
それからもう一つ。
江戸時代には日本を代表する伝統的な彫り物で日光彫りというのがありました。
今度は彫刻家具が横浜から外国に輸出されるようになってきました。
ヨーロッパの家具を日本式に真似して作ったこと、逆に彫刻家具を横浜から輸出していったということ、その大きな二つの流れが、ここ横浜の元町を中心に起こっていったということです。

村田:ありがとうございました。
今日はメリーゴーランドが興行で出かけていて、現物を見ることができませんでしたが、1214日、15日には本牧山頂公園に登場しますので、ぜひ、そちらの方へも足を運んでいただければと思います。
日本で是非とも見てみたいと思うメリーゴーランドがもう一つあります。それは豊島園にあるエルドラドというメリーゴーランドです。
1907年にドイツで作られ、その後、アメリカに渡り、1971年から豊島園で稼動しています。あの時代のものですから、装飾はアールヌーヴォー様式で素晴らしいです。
何年か前に日本の機械遺産に認定されています。
それから鉄道の話しですが、会社によって線路の幅が違うということを嶋田さんが知らなかったというので、すこしだけご紹介しておきます。
たとえば根岸線。あれは3フィート6インチで、1067mmです。
新幹線は広軌といってますが、外国ではあれは標準で4フィート8.5インチ、1434ミリです。
横浜の市電は4フィート6インチで1372ミリでした。
この辺のことを頭に入れていただいたうえで、模型が出来上がっているということを理解していただき、これからのお話を聴いていただければと思います。
予備知識として記憶にとどめて置いてください。

≪本牧で見た外車たち≫(数枚映写)





 本牧に米軍ハウスが広がっていた頃の写真を観賞しました。

村田:それではタカハシガレーヂの高本さんにお話をしていただきましょう。



高本:懐かしく見させていただきました。写真を見ると昔の友だちというような感じです。
あの当時、日本車と違うのはガソリンをぶち撒いて走っていたということです。ガソリンタンクが150リッターです。ドラム缶、あれ1本が200リッター。
このタンクに150リッター入れて箱根に行ったとすると、果たして帰ってこられるのかどうか。
帰って来られないのですね。そのくらいガソリンを食いました。
エンジンを分解し部品を洗ってから組み立て、車に取り付けずに試運転をするのですが、1升ビンにガソリンを1リッター入れて外車のキャブレターにホースでつなぎアクセルを吹かすと、どうなると思いますか。
ガソリンが半分無くなっているのです。それくらい外車は飲兵衛だったのです。150リッター入れて箱根に行って、帰って来られないわけです。
米軍ハウスの前にネイビーのガソリンスタンドがありまして、アメリカ人と一緒に行ってガソリンを買ってくるのですが、日本のガソリンとは色が違うんです。赤くてギラギラしていました。鉛が入っていたんですね。鉛を入れるとシリンダーが減らないのです。
その代わり高くつくのです。ガソリンは当時の値段で16円でした。それでも高いと思いました。
あの頃は灯油がなくて、分解したエンジンなどを洗うのもガソリンでした。まあ、エンジンが粗末だったので、オーバーヒートすることもしばしばありました。
 お店でも話しましたが、最初は終戦直後で道具がないから外車の洗車をしていました。

 それからパンク修理ですね。
オヤジが満州でタイヤの再生、修理をやっていたので、パンク修理はお手の物だったわけです。しかし、それも道具がないからヘラなど手づくりでやっていました。
 当時のタイヤは中に浮き輪のようなチューブが入っていて、釘なんかを踏むとそれに穴が開いてシューっと空気が抜けていったんですね。
嶋田:外車の修理は一人で一台やっていたと聞いたことがありますけど。
高本:当時は人がいなかったですからね。アメリカ人は本国に帰るとき、日本で車を整備してから持ち帰っていました。本国で整備するより、その方が安かったのです。当時は1ドル360円でしたからね。ほとんどのアメリカ人がうちで整備して帰って行ったのです。
もちろん洗車もしていました。それもスチームじゃないと許可が得られないのです。日本から病原菌を持って帰ると危ないということで、スチームで洗車していたわけです。
 物がない時代でしたから、先代の社長が考案したのは、銅パイプに水を通して、下からバーナーで熱するという方法でした。パイプから蒸気が出て、それで洗車するわけです。
 昔のアメ車にはモールと言って、ピカピカ光るメッキの飾りが付いていました。あれも外してきれいに掃除していました。
本国に送るのには船を使っていて、結構な時間がかかるわけです。汚れたモールから腐ってくるというので、すべて分解してきれいにしたものです。
 出航はノースピアでした。瑞穂ふ頭ですね。積み込むまでの時間もかなりかかるため、外車にはワックスを分厚くかけたものでした。

村田:ありがとうございました。続いて篠原さんにお願いしたいと思いますが、今日見たあそこは線路を造る工場ということでしたが、関内にはお店もあるので、そのことも含めてお話をお願いいたします。


篠原:先ほど工場をみていただき、こういう製品を作っているのかということで驚かれた方が多いのではないかと思います。
私も手伝うようになって10年ぐらいになります。
そもそも、なんで始めたのかということなんですが、先々代の祖父が最初は三菱重工に勤めていたのですが、これからは自分で会社をやらないといけないということで燃料屋を始めました。
あるとき米軍ハウスに行った際に、ジオラマを作っている将校がいまして、その人から「ジオラマが不良なので見てくれないか」と声をかけられたのがきっかけとなり鉄道模型に関わるようになったといます。
機械のほうに明るかったので、「あー、こういうことも商売になるんだ」と思ったそうです。
それからは模型の電車を輸入して売るという仕事をしてきたそうです。
聞いてきたような話しですが、祖父は寡黙であまり喋らなかったため、詳しく知っている者がいないのです。先ほど工場の2階で説明をした専務は社長の弟なのですが、彼も「何でだろうな」というくらいです。
唯一、父の妹だけが生前、祖父からいろいろ話を聞いていたようで、いまお話したようなことを聞きました。
 最初の店は麦田町にありました。すし屋の「侘介」の場所です。
先ほど見学している中で、麦田のお店にいらした方が今の製品をご覧になって、昔のとあまり変わらないよねというお話をされていました。
昔も機械でプラスチックを成型していたのですが、手作業でギューッと出していた。それから品物の内容はあまり変わっていません。
 タカハシガレーヂさんが車のほうは年々進化しているというようなお話をされていましたが、うちの品物はそれほど進化していません。そのままの物を継続していて、お客がついてきてくれるという品物なのかな。時代が進んでも、あまり変わらない方がいいものもあるわけです。
 麦田町で小さくやっていたわけですが、もう少し広いところがいいなということで、本牧に出てきました。
いまスーパーの「まいばすけっと」があるところに移転。工場も併設していたので、生産力としてはそれほど大きくはありませんでした。
当時は1ドル360円ということで、どんどん海外に輸出していました。今でもメインはアメリカで、ほかにドイツ、イギリス、オーストラリアなどにも輸出しています。アメリカが80%ぐらいです。
最近、横浜に「原鉄道模型博物館」ができて、鉄道模型業界には追い風が吹いているじゃないかという話しがあります。
うちの会社はこういうレールを使ってジオラマを作ってもらうということがメインになっていまして、これを使うということは広いスペースが必要になってきます。
そうすると、日本国内でこのようなレールをたくさん使えるという人は、そう多くはないわけです。追い風はそれほどではないのかなとも思います。
 昔は円安で良かったというお話をしましたが、だんだん円高になってきて、一時期、70円台というときがありました。
模型業界って、けっこう輸出している会社が多かったのですが、70円台になったときに、大方の会社は輸出をやめてしまい、国内に切り替えてしまったのです。それを越えて輸出を続けているのは、多分うちくらいじゃないでしょうか。
 中国がよく引き合いに出されます。中国が台頭してくると商売が大変じゃないの、という話しが出てきます。
しかし、工場で専務が「うちの強みはバラエティに富んでいること」とお話ししました。たしかに外国のメーカーはそれほど多くの種類は造っていないのです。
先ほど村田さんがゲージの話しをされていましたけど、縮尺によって線路の幅が違ってきます。
日本の線路には狭軌と広軌があります。在来線は1067ミリ、新幹線は1435ミリ。外国ではこれが標準なのです。
日本の鉄道模型が不思議なのは、車輪の幅の縮尺は87分の1にしているのですが、線路の幅は80分の1にしているのです。

嶋田:合わないですよね。


篠原:そう、合わないんです。模型がガニマタなんです。日本の模型は縮尺が合っていないから、何を造っても偽物なんですね。
新幹線や京急はそのままで正しい縮尺になっていますが、在来線についてはおかしなことになっているのです。
そういうのを嫌ったお客さんが、もうちょっと日本の縮尺にあったゲージのものを造ってくださいということに。
 普通の標準軌は16.5ミリでうちは造っているのですが、HOゲージですね。これを日本の狭軌に合わせたサイズ、だいたい12ミリとか13ミリになるのです。
そうすると蒸気機関車が美しく出来上がって見栄え良く走れるのです。本格志向のお客様がいらっしゃって、そういう方々のためにもバラエティを豊富にしています。
外国でもHOゲージのほかにHO3ゲージとかいろいろな幅があって、そういうお客さん向けにも、いろいろ取り揃えています。
 あとは、ハンドメイドなので、精巧性が高い、玄人志向が高いと、取引先によく言われます。入門者がうちのレールを選ぶかというと、選ばないらしいのです。
あるていどスキルアップして、今度はいいものを造りたいので、篠原さんとこのレールを使おうという人たちが、うちの品を贔屓にしてくださっているそうです。
 簡単につなげて模型を走らせるような、そういうレールを造っているメーカーもあります。日本国内で使うには、こういった可動式というのですが、出したり仕舞ったりするのが簡単なものが喜ばれる。
 うちのは、裏側を削って形を変えるとか、フレキシビリティに富んでいます。鉄道敷きには砂利が敷いてありますが、こういう砂利を自分の好みに造るのが、うちのレールは向いているのです。
1階の奥で1メートルのレールを見てもらいましたが、あれにはスリットが入っていて、自分の好きなように曲げられるのです。多くのメーカーの製品は既製の形、カーブの角度などが決まったものしかないので、お客さんはそれに合わせてレイアウトを考えなければなりません。
それに対し、うちのレールを使っていただいている方は、自分で自由に曲げたりして、思い描いたレイアウトに設計できるのです。
 代表的なものでいえば、大宮の鉄道博物館。
あそこのジオラマの線路は1400メートルほどあるのですが、全部、うちの製品を使っていただいております。

嶋田:そろそろ残りの時間が少なくなってきました。ここで会場からもご質問をいただかないと。

村田:その前に市電のビデオをご覧いただきたいと思います。

≪市電の映像≫ 数枚映写


嶋田:懐かしいですねぇ…

村田:麦田にある「市電車庫の碑」が、私にはお墓に見えてきました。それではご質問をどうぞ。

男性:タカハシガレーヂさんにお聞きします。軽自動車から普通車、外車まで全部、対象なのですか。

高本:そうです。

男性:それだけの種類の車を整備するメカニックを揃えるのは大変だと思うのですが、そういうすごい整備工のその供給源というか、どこから雇用してきているのでしょうか。
それとも内部で養成しているのでしょうか。

高本:私が若い頃、同年代や10歳くらい若い人たちがいたのですが、先代社長の出身が九州の大牟田なんですね。そこから学校を卒業した人たちを紹介され、彼らを会社のそばに住み込ませ、一から教え込むということでした。
ある程度、一人でできるようになるまでには、だいぶ時間がかかりますよね。
ひととおり外車ができるようになっても、それから国産車に移ると、これまた相当時間のかかる仕事なのです。早く一人前になりたいなら、廃車になる車を分解して構造を調べるのが手っ取り早いということで、やらせていました。仕事が終わってからですよ。私もよく分解しましたが、もとに戻せなくなったことも。
 当時は手をとって教える時代ではなく、職人さんという人たちがいましたから、そういう人たちの仕事を見て、まさに見習いでした。
タイヤの取り付けとか、部品洗いや車洗いとかはやらせてくれるのですが、ギアのミッションなんかは触らせてくれないのです。
解体の車が来ると、みんな寄ってたかって作業したものです。



村田:ありがとうございました。篠原さん、そこに置いてある市電がお客様が作ったというものですか。

篠原:いえ、あれは売り物です。もう一つ、他のほうが作っていただいたものです。

村田1000系ですか。

篠原:いえ、600系です。

村田:その向こうの小さいのは私がボケ防止に作ったNゲージの市電400系です。

嶋田:そろそろ時間が来たようです。


佐久間:大変お疲れ様でした。また今日はどうもありがとうございました。
日ごろは、本牧リボンファンストリート、本郷町商栄会をご愛顧いただき大変ありがとうございます。
私は本郷町でフトン屋をやっていますが、ワールドポーターズの方でも「アントワーヌ」という店をやっております。
そこではリバティーの生地を扱っております。そのリバティーでひと言。
先ほど、アール・ヌーボー、アール・デコという言葉を耳にされたと思いますが、アールというのはArtと書きます。「t」は声に出さないので「アール」なのですね。そこでアール・ヌーボー、アール・デコとなります。
800年代後半からこういったものが出てくるわけです。

商店街うんちくツアーということで、これまで各お店を廻り、うんちくを聞いていただいてきました。
 いろいろなご提案もさせていただいてきております。これを機に、またひとつ商店街をよろしくお願いしたいと思ます。

(おわり) 

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